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2009/11/27

ケンタとジュンとカヨちゃんの国:貧困のスパイラル

“人間には人生を選べるヒトと選べないヒトの二種類存在する。”
貧しい者は貧しい者を、富める者は富める者を生み出し、そのサイクルを繰り返していく。いくら光を求めてこの世界を壊そうとしても、何も変わらない。そんな救いようのない場面が次々と繰り出されるこの映画は、社会学などで用いられるピエール・ブルデューの「再生産」を思い起こさせ、ずっしりと重い問題が潜んでいます。

貧しい家庭に生まれ、児童養護施設で育ち、十分な教育を受けられないまま選ぶことのできない職に就き、職場ではいじめを受けるなど恵まれない境遇から、生い立ちへのやるせなさから暴力事件などを起こし刑務所に入ってしまう、主演の松田翔太演じるケンタの兄。
孤児として同じ施設で育ってきたジュン。そしてケンタとジュンがナンパをすることで知り合うことになるカヨちゃん。彼女は男性と一夜を過ごし続けることでどこかにあるであろう愛を求めている女性。こういうケースは現実にも多いものなのではないかと想像します。兄を見てきたケンタは“海の向こうには俺たちの知らない世界”があるのだろうか、“海外ってどんなものなのか”と何か遠くの世界への憧れと、この社会を壊せば光が見えるのだろうという期待を兄のいる網走にて見事に裏切られます。本当に救いようのない世界が最後まで描かれます。

日本でも貧困は存在しています。身近なはずなのに見えないのです。この映画はこれから世界にはばたくようですが、広い意味では貧困の視点において世界的に共感を得ていく映画となっていく可能性はあるのかもしれません。例えば、昨今インドでは未だに社会的には存在しているカースト制を越えるために、唯一平等な仕事を得られるIT産業に就く人が増えていると聞きますが、それは階層を脱却する一つの救いとなっています。しかしこの映画には悲観的で一筋の光はありません。それがまた現実味を帯びていて、観た者に思考をさせるのだと思います。


井山 彩子

2009/11/26

11月22日:"Visage" exhibited in various aspects

今年度見た第一作目。上映前の監督の舞台挨拶で「これは難解な映画です」とコメントがあったので、私は注意深く心して見ようと思ったのですが、「何なのこれは!!」という感想。こんなにも難解な映画をみるのは初めてで、眠気に襲われてしまったというよりも途中どこかの別の世界に引き込まれていくような感覚になり一時睡魔に襲われ、再び起きた時には本当に夢の世界へ行ってしまったような感覚さえ覚えたというのが正直なところです。「本当に観客は理解してるの?」と思い上映後のQ&Aにも参加してみました。監督が「頭を使わせる作品」と述べつつも、「ストーリー性を狙ったものではなく、イメージで追っていく映画」なのだそうです。どうしても色々な側面で解釈することに焦点を当ててしまいがちな私の思考を停止させる映画でした。Q&Aの際にも観客は何らかの理解をしようとして質問をしたものの、理解が難しいのが狙いであり、何度も見るたびに解釈なり見方が変わることを監督は期待しており回答がなかったのが歯がゆいところ。

「Visage(顔、様相)」という名の通り、今思い出してみると大げさなくらい様々な形相をする人物たちが思い出され、通常は表情を見れば映画というのは何となく感情を読めるはずなのに、なぜその表情をしているのか解読が難しいのです。ただその忘れられないような表情が時々頭に浮かび、また幾度となく登場する「馬」など何かを象徴するモノがところどころで浮かばれ、イメージだけが感覚として残るというのは本当のようです。

また、この作品では「動」と「静」が巧みに使われている印象はあります。BGMなどの音楽は無声に近いものがある、と思えば突然大音響が流れ出し、ミュージカルのように踊り子が登場。迫真の演技をしていて次に何が起こるのかと思えばふっと画面がまったく因果関係のない場面に変わる。本当に「何なのこれは!」状態なのです。そうやって観客を遊ばせるのもこの作品、この監督の狙いなのかもしれません。現在のところ配給予定はないそうですが、ルーブル美術館に寄贈ということでおフランスでは上映しているそうなのでもし機会があれば是非見ていただき、皆さんが何を思うのか是非お聞きしたいです。そうやって話題を生むというのもすべて監督の細工なのかもしれませんが!


井山 彩子


2009/11/24

Filmex2009レポーター自己紹介:井山彩子

昨年同様今年もレポーターを務めることとなりました、井山彩子と申します。
私は現在は某メーカーの経営企画という部署にて全社を監視するような怖がられる仕事をしています(笑)。社会やヒトを観察しながら分析するのが好きで、会社という小さな社会においても様々な観点で観察するようなお仕事を運良くさせていただいています。

大学では外国語学部ラオス語学科というユニークな東南アジアのマイナー国の言語を専攻し、その後途上国の教育について深く学ぶため、イギリスの2つの大学院をまたぐという妙な経歴をもっています。舞さんと出会った1つめの大学院では開発学専攻にて途上国社会について大局的に学び、その後教育の分野において途上国の非識字者(基礎の読み書きができない人)が文字を習得するによって、文字の意味だけでなく自分の存在する社会を解読するという感動的な概念に惹かれて、それを含め教育について深く学ぶべくレディング大学院(教育とトレーニング専攻)にて2006年に修士号を取得しました。

というわけで映画とはまったく関係がないようですが、いずれもマイナーな観点から全体をみる視点を得ることができ、様々な社会を何らかの媒体により解読していくという作業に興味があり、フィルメックスにおいては多くの人にまだ知られざる作品であり、また多くの‘アジア諸国’からの映画ということでどんなユニークな視点を得られ、その意味を自分なりに消化できるのか非常に興味があります。

また私は趣味でBGMなどを作曲していますがローカルCMの作曲をしたこともあり、映像と音楽のコラボレーションにも大変関心がありますのでそのような視点を大切に映画をみていきたいと思います。

今回も普段見られないタイプの映画を十分に味わいたいと思っています。どこかの視点で共感できたら幸いに思います。どうぞ宜しくお願いいたします。


井山 彩子

2008/12/04

Welcome to the chaos of “Delta”

クロージング作品として上映された『デルタ』。2005年にカンヌ映画祭「ある視点」に選ばれた『Johanna』のムンドゥルツォ・コルネール監督による長編第3作です。

ハンガリーのデルタ地帯の村を舞台に、故郷へ戻ってきた若い男性を取り巻く妹との関係、母と義父との確執などを描いた作品。詳しくはこちらをどうぞ。

まず、この作品を見て思ったのは、コンペ作品の日本映画『passion』の対曲線上にある映画だということです。どちらが良い悪いということではなく、濱口監督が台詞の多い映画作りをあえて行っているのとは逆に、この映画はあえて「言葉はいらない」と言わんばかりに台詞を最小限に押さえています。このような対照的な作品がプログラミングされていることに、東京フィルメックスという映画祭の存在価値を感じずにはいられません。

実は、台詞だけではありません。この作品は、「クローズアップはいらない」と言わんばかりに隠します。それはまるで、人間の所業を大自然の中に包み隠すかのようでもあります。例えば父親が家を出る義娘を引き止めるシーン。山々に囲まれ広々とした野原のロングショットに響き渡る義娘の悲鳴と父親の嗚咽。画面上では豆粒ほどでしかない小屋の前で、点のようでしかない2人に何が起こっているのか、観客は知りたくても見ることができません。最後のクライマックス場面でも同じです。闇で覆われた川と夜空のロングショットのなかに、線のように細くかかる橋の上を走る女性と、それを追いかける村の若い男性たち。遠くから聞こえるかすかな悲鳴。黒く静かな水面に立つ一点の小さなしぶき。

この2場面では、事前に巧みに張り巡らされた伏線によって、観客は一体何が起きているのかをある程度想像させられます。しかし、想像させられる場面は大抵、全うな人間であれば目を伏せたい、信じたくない場面です。聞かせず、見せないことで「そうあってほしくない」「きっとそうではない」という思いを観客に持たせつつ、次の場面ではまるでその儚い期待を裏切るように、絶望を突きつける。義娘の太ももを見たとき、主人公の水に溺れるざわめきが途切れたとき、私は「知らなければよかった」という後悔すら生まれました。皆さんはいかがですか? このような演出のなかで、デルタ地帯の大自然は、人を癒すような存在ではなく、むしろ脅かすような不気味な存在にすら見えてきます。

聞きたいことを聞かせない、見たいものを見せない。広い意味での商業映画は台詞やBGM、カメラの動きやショットの組み立てによって、わかりやすく演出されるものですが、この映画はまさにそのアンチテーゼと言える存在でしょう。ただ、これは場面で切り取る要素の選択の問題で、それがこの映画では独特だということですから、もしかしたら監督にとっては隠すとか、そういう意識ではないのかもしれません。どちらにせよ、観客は惑わされ、裏切られ、迷い込む。迷路を楽しむか苦しむかは皆さん次第といったところでしょう。

加藤 舞

Love story that never gets old!! – 『執炎』

東京フィルメックスの会場の一つ、東京国立近代美術館フィルムセンターの特集上映プログラム、蔵原惟繕監督特集〜狂熱の季節〜から『執炎』のレポートをお送りいたします。

時は太平洋戦争前後。山陰の部落に住む女性が、網元の男性と恋に落ち結婚するも、戦争が2人の幸せを残酷に引き裂く、というお話です。こちらをどうぞ。ちなみに、山側と海側の生活習慣や自然風景、山陰の家屋、着物や海女の服装、能などといった日本文化の描写も多く、大勢いた海外の観客も楽しんでおられたようです。私も原作を読んでみたくなりました。

この作品は女優浅丘ルリ子の出演100本記念として1964年に日活で制作されたものです。1964年と言えば東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された年。この投稿のタイトルを「Love story that never gets old!!」としたのは、まさに作品のストーリーに古さを全く感じなかったからです。『ロミオとジュリエット』のストーリーが『ウェストサイド物語』に設定を変えて翻案されたのと同じように、この『執炎』のような「愛しい男性の帰りを待つ美しい女性」の話も、どの世代においても共有され、また消費されるものですね。一方で、ナレーションにところどころ見え隠れする反戦的な言い回しには独特なものを感じ、きよのの出身村にまつわる伝説や、彼女が人魚のように裸で海岸を走り回る姿には神話的な要素も感じられる作品です。

この特集上映に関しては、会期中にイベントも多数行われています。以下のビデオも是非あわせてご覧ください。「たくさんあって一気には見れない!」という方、VOLUMEONEからpodcastを是非是非ご利用くださいませ。




加藤 舞

「成長」って何だろう – 『木のない山』

審査員特別賞を受賞した韓国映画『木のない山』。ソヨン・キム監督の作品です。上映前の舞台挨拶では、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭において『ソルト』という作品で新人監督賞を受賞した夫のブラッドリー・ラスト・グレイ氏と娘さんも登場されました。

韓国ソウルに住む少女が、生活困難のため母親と別れて地方の伯母の家や祖父母の家に移り住み、妹と共に成長するという物語。詳細はこちら

この作品の特徴は、とにかく少女ジンとその妹ビンのクローズアップ・ショットが長い&多いことでしょう。クローズアッップやビック・クローズアップを頻繁に挿入することで、少女たちの寂しさや悲しみ、混乱や怒りを抱え、差し迫った状況のなかで必死に生き抜こうとする姿が見事に描かれています。もちろん、この手法が成立するのは子役2人の演技が素晴らしいから。あっぱれです。

内容ですが、監督ご本人やレビュー、また審査員特別賞の受賞理由のなかでも「少女たちの成長」というキーワードが多く出てきました。実際、この映画は姉妹の成長を映し出していますが、もうちょっと噛み砕いて考えてみたいと思います。

「成長」という言葉とは裏腹に、私はこの映画のなかでジンは徐々に「子供」らしく変化していると思っています。ビンを煙たそうに無視していたジンが、クロージング・シーンでは姉妹2人仲良く遊びながら歌を唄っている。だからといって、ただ単に「妹の面倒をちゃんと見れる姉になったからジンは成長した」という解釈にはならないのが、この映画の魅力の一つです。

母親といるとき、ジンは常に妹ビンの面倒を見るように言われてきました。友達とメンコで遊びたいのに隣人に預けられた妹を引き取りに帰らなければならず、伯母の家に行く途中も駅でビンをしっかり監視するように言われます。別れ際にまで「お姉ちゃんなんだから」と言われてしまう彼女が求められている役割は、実は「姉」ではなく、「母親」だったのではないでしょうか。子供であることを拒否された状態で、しかしながらまだ子供である彼女は、ビンのお迎えに遅刻したり、駅でもビンの行動に知らんぷりしたり。

一方、祖父母の家では、ジンはビンと一緒に行動し、遊んだり、仕事をしたりしています。その様子を私たちは「面倒を見る」と捉え、同時にそれを「成長」と捉えることもできます。ただ、ジンが「姉」としてビンに接することができるのは、祖母が「母親」のような愛情を持って孫2人に接し、食料を与え、生活の術を教えることで、彼女が「子供」であることを許したからではないでしょうか。「子供」は「母親」にはなれないのですから。「子供」として、ジンは母親が帰らないことを理解し、妹のビンと向き合い、祖母への優しさをも見せられるのです。その過程を、この作品では「成長」として繊細に描いているのだと私は考えます。

私は妹なので、姉が周りからよく「お姉さんなのに」と言われる姿を見てきました。ビンのようなわがままや甘え方を幼い頃によくしていたことも思い出されました。同じような気持ちにかられた方も多いのではないしょうか。フィクションとはいえ、ここまでリアルに観客の記憶を引き起こす映画ですから、やはり、タダモノではありません。


加藤 舞

You cannot be real in black and white -『文雀』

ジョニー・トー監督による香港映画、『文雀』を見てきました。主人公のケイはスリ4人グループのリーダー的存在。一方で、スリで一稼ぎしたあとには自転車で街を周り、香港の街並みや人々の表情を写真に撮るという趣味の持ち主。そんな彼は、ある日街の中を逃げ回る若く美しい女性に遭遇し…というわけでストーリーはこちら

この作品を見てまず気がついたのは、映画全体を彩る、というよりは「征服」する色の使い方でした。特に、彼がこだわる写真の「白」と「黒」、そして「赤」です。白黒写真を燃やす赤い炎、タバコについた口紅のあと、そしてカッターに残るケイの血、ケイの白いYシャツを染める血。東洋と西洋が入り混じっている香港の街並みのなかで強調される、この3つの色の美しさには目を奪われずにはいられませんでした。

映画のタイトルにもなっていて、またストーリーの鍵ともなる「文雀」。日本では文鳥と呼ばれますが、この鳥もまた「白」と「黒」の体に「赤」い嘴を持っています。ケイの家に迷い込んだ文雀がこの赤い嘴でチュンレイの指を噛んだように、まるで籠の中の鳥のような生活を強いられていたチュンレイがケイや他のスリ仲間に接近し、トラブルに巻き込んでいく様子は、この映画における3色の役割を象徴しているかのようでした。

ケイは美女のチュンレイに「どうして写真が白黒なのか?」と問いかけられ、「色は人を欺くから」と答えています。つまり、スリであるケイは「白黒」の世界こそが本物、本質であると思って生きている人間。自分がスリという行為で人を欺いているにもかかわらず、自分は人に欺かれることなく生きていたいから「白黒」写真にこだわる。しかし、チュンレイの登場によって彼は「白黒」の世界から引きずり出されます。チュンレイのせいで怪我を負ったり、スリという正体を世間にバラされてしまったり、唯一無二のスリ仲間と喧嘩したり…。言い換えれば、チュンレイはケイの生活に、写真を燃やす炎、口紅やコート、空港へ向かうタクシーに象徴される「赤」、そのほか様々な「色」をもたらしています。しかし、こうして映画のスト−リーが進むように、恋愛やトラブルを繰り返し人生は動いてゆく。本物の人生、生活の本質には「色」があり、それが毎日を面白くするということです。このケイの心情や身辺状況の変化が、映画では「白」と「黒」、そしてその2色を掻き乱す「赤」によって、巧みに描き出されているのではないでしょうか。そういう意味でも、クラシックな一作。私は大好きです。

加藤 舞

2008/11/27

「ヘアカット」:居場所を求めて

アバイ・クルバイ監督のデビュー第一作目というカザフスタンの映画。カザフスタン映画というのを初めてみたのですが「風景と心理を鮮烈に映し出す」と宣伝にあったように、ロシア周辺諸国の映画は、暗いながら心理描写が素晴らしいというイメージを抱いていたのと、「家庭や学校になじめず、短い髪で少年のように振舞う多感な10代少女を描く青春映画」とのことで、どのように揺れ動く心理を描くのか楽しみに見てきました。キャスティングされている人物達は実に多様で、顔も日本人のようなアジア系の顔の人、そして西洋人のような顔の人もいます。一歩ひいて映画をみてみると人種のるつぼ的な不思議な感覚を覚えます。監督は日本人に近いような顔立ちをした方で、本日(11月26日)初来日をして成田の税関で係員が日本人と思われる人を審査するのが不思議そうだったとコメントしていました。 

さて内容についてですが、映画が終わった後、人々がすすり泣いているのが聞こえまして「これは泣かせる映画なのか?」何を伝えたいのだろうと、深く考える要素があると思いました。映画では様々な若者を取り巻く環境が描かれます。当たり前のように蔓延しているタバコやドラッグの世界。主人公は離婚した母親と新しい父親とうまく暮らしていけず、学校でもつっぱっているせいか、男の子と殴りあうこともあり、そのうち居場所を求めて行方不明になってしまう。以前暮らしていた本当の父親の元に時々通ったり、工事現場の温かい男性のところに泊めてもらったりと、色々な出会い。髪の毛を切ったのは、一見「男の子」の風貌にすることで、昼夜どこを出歩いても大丈夫なように、出発をする決意のために切ったようにみえたのですが、自分を守る手段ともとれるはずが、良心で酔っ払いのリッチな男性を親切に家に送り届けるところで、女性と見破られ暴力を受けてしまう場面もあります。また、彼女とは対照的な、極めて女性的な女友達が常に心配をしてくれ、彼女といるときだけは素直になり、唯一の居場所だったはずがそれすらあるきっかけでつながりが薄れてしまい、悲劇ばかりで彼女は救われないのだろうかということで涙を誘うのかもしれません。

しかし私は、どんなことがあっても最後まで居場所を求める彼女の姿に強いものを感じ、「居場所を求めること」は国を越えて思春期以降、誰もが経験する成長過程の特徴として涙を誘うよりもオトナに向かっていく姿としてポジティブに捉えられました。未来を担う若者たちがどうなっていくのだろうというところに関心をもって撮ったとインタビューで監督が述べていましたが、カザフスタンの若者を取り巻く一場面を垣間見、何か共通する課題について考えることができる作品です。



井山 彩子

2008/11/26

11月24日「ノン子 36歳(家事手伝い)」:ヒトの弱さ

この作品、パンフレットを手にしたときから見たいと思っていました。イギリスの絵画、ミレイの「オフィーリア」をすぐに思い起こさせるインパクトのあるパンフレット(こちら)で手にとった者を「見たい」と瞬間的に思わせることに成功していると思います。内容は、簡単にですが30代半ばを過ぎた、かつては芸能人であった女性が離婚を経て、今ではもてはやされることもなく、何かに熱中することもなく田舎で神社を生業とする実家でなんとなく手伝いをしながら生活をしている中、世間知らずの若い男性と偶然出会い、その純朴さに惹かれ心を開いていく過程を描いていて、30代半ばで、どこにも方向性の見えない中生きている状態がこのパンフレットの浮遊感にわかりやすく表れていると思います。
 
まず音について印象的だったのが、この映画の中では主人公のノン子が常に近所を歩くときに履いている下駄(上記のパンフレット上でも彼女が履いていることに気がつきました!)が実に耳に心地よい音を響かせています。ノン子が怒っているときも笑っているとき もそのカツカツっという音は何ともいえない、映画では感じるはずのない風を感じさせる、空気のようなものがそこにはあるのです。音楽については、非常に様々な楽器を使ったポップな音色がよく流れるのですが、特に「この良い弦の音色、聞き覚えがあるなぁ・・」と思っていたら私の大好きなアイリッシュ音楽を用いていました。その国の歴史を示すように、それが時に物悲しくも楽しくもさせる効果をもっており、日本のある静かな古風な町にあえて流すことで、一層不思議な空間を生み出していたように思います。

さて、主旨とはずれてしまうのかもしれませんが、私はこの映画を見ていて<ヒトのアイデンティティ>について触れたいと思いました。前回「Passion」という映画(30歳前後の男女を描く)を見たばかりなので影響されているというのもありますが、それと共通してこの映画でも年齢と社会での期待される役割という日本の典型的な構図が垣間見え、題名「ノン子36歳(家事手伝い)」からも、年齢や職業や結婚がその人のアイデンティティの象徴として重要な役割をしていることに気がつきます。映画では表面的には描かれていないかもしれませんが、人は仕事なり遊びなり何かにエネルギーを注ぐ性質をもった動物であり、それが満たされていない状況下-ノン子の場合、仕事に恵まれず、熱中するものもなく、バツイチである-そのジレンマが”彷徨う性の解放”、そして”ヘビースモーカー”であるというノン子=坂井真紀の体を張った演技から私には伝わってきました。「自分が誰かのOnly Oneである」「家族がいるから頑張れる」「誇りとなるような仕事または定職がある」といった役割をもつことがヒトを支えるというのはよく言われることですが、それがないと安定感を保つことができないなんて何てヒトは弱い動物なのだと改めて思い、自身が実感としてもつのだろうかと、自分が30代半ばになったときにもう一度見たい作品です。

井山 彩子

2008/11/25

They are all in the BLUEs of “Passion”

11月23日に上映された『Passion』、見てまいりました。舞台あいさつで濱口竜介監督より「役者を見てもらう映画だと思っている」との発言がありましたが、『バッシング』で注目を浴びる占部房子さん、また私にとっては『ケイゾク』での演技が印象深い渋井清彦さんなどと、出演者も新進気鋭の方ばかり。東京藝術大学大学院修了作品ということで、海外からも注目される要素を強く兼ね備えた作品です。

さて、内容ですが、結婚、妊娠、仕事などについて悩み、もがきながらも生活を送る30歳前後の男女のお話です。詳細はこちら

30歳前後ということで、私はまさにストーリーのど真ん中の世代なのですが、登場人物は学校教師、非常勤講師、大学院生、サラリーマン、作家、主婦であり、また誰かの夫であり、妻であり、恋人であり、独身であり、人の親となる身でもあり…。たとえ観客が30歳前後の方ではなくても、登場人物に感情移入しやすく、楽しめる作品だと思います。

この作品を見てまず感じたのは、男3人が夜道でじゃれ合い、また本気で喧嘩する姿に象徴されるような、登場人物の「子供っぽい」姿でした。

結婚や妊娠という人生を左右する大きな節目を前に、彼らはただ黙ってそれを受け止めることができない。社会的に喜ばれるべきことを、素直に喜べず、「悪くない」と言うことしか出来ない。彼らはまるで、現実を目の前に、ところどころで挿入される大都会の俯瞰図のなかで迷子になりながら走り続けるコドモのようでした。正確に言えば、「コドモ」ではありません、「オトナ」です。ただ、彼らは社会的には「成人」であっても、精神的には「大人」になりきれない存在なのです。そういう意味では、この映画は大人に成りきれないオトナの思春期やモラトリアムを描き出した作品といえるでしょう。

途中、学校教師役の果歩が「大人」として、クラスの子どもたちのいじめ問題について向き合う場面が出てきます。学生たちは思春期のまっ只中にいる存在であり、クラスで起こった自殺やいじめ問題について、生徒に必死に訴えかけようとする果歩に対して、挑戦的な態度を示します。この場面で、果歩は結局彼らを説得することができず、教室から逃げ出すように去ることしかできません。つまり、「大人」としての彼女は、「コドモ」の論理に勝つことはできなかった。実は、彼女もまた「大人」になりきれない存在であった、ということです。その夜、自らを「大人」だと証明でもしたいかのように智也を求める姿は、その象徴ともいえるでしょう。

印象としては、私自らが同じような年代だからということもありますが、非常にリアルな、いい意味での生臭さが漂う作品でした。上映後の質疑応答にもありましたが、この作品には「台詞が多い」という特徴があります。登場人物の心情や状況をあえて言葉にせずに、演出で代弁させるという技法が映画ではよく使われますが、濱口監督はあえて台詞を多くし、また今後も台詞の多い作品を作り続けていくだろう、と答えていました。この特徴が、リアリズムの生臭さを拒絶あるいはうまく中和し、この作品を「映画」たらしめているのかもしれません。

加藤 舞

Passion、Passiveが罪となる

さっそくですが、本日東京藝大大学院生の作品という“Passion”を見てまいりました。ギター音がゆっくり流れる中で二人の男女が乗るタクシーに乗っていた中、ブレーキ音のキーッという音から何か不吉な予感と緊張感を与えるような形で音を効果的に使ってこの題を表示させるところから始まったのが印象的でした。あまり音楽を使わずセリフが多い映画ですが、「パリのアメリカ人」を使うなど何か高級感がある感じが「芸大っぽい」と感じるのは私だけかもしれませんが、なぜこの音楽を使ったのかは気になるところです。
 
“Passion”それは情熱という意味よりも受け身の“Passive”、Activeと対照的な意味を含むのだ・・といったようなことを監督がインタビューの中で述べていましたが、恋愛においては何がマジメで何が不真面目なのかというのは、その姿勢がPassiveであるかどうかによって変わってしまうのだろうか、といったメッセージ性をもつ作品ではないかと。ステディーな相手がいるのに別の相手に求められるままに受け入れるということが悪者になるのか、結婚をしていても恋をすることが罪なのか、など万人に共通するような事柄について、「結婚」適齢期となる複雑な30歳前後の何組もの男女の心理模様を描くことで改めてリアルに考えさせるような感じがします。 

上に関連して、この映画の中ではメモをしていかないと忘れてしまうくらい考える要素が盛りだくさんで、普段から簡単に発せられている言葉の数々に問題を投げかけています。「誠実さがない」「愛がない」「暴力がない」など。いったいこれらはナンなのか?ヒトはいつでも「Passive」な姿勢からいくらでも誠実に接していても思いやりから不誠実になったり、意図的でなくても 相手にとってみたら暴力となったり、それって裏腹なのではないかと。こういった一つの言葉や姿勢について常に一つの事柄を両面からみる作業を色々な場面でやっている映画だったような気がします。
             
さて日本においてはこの30歳というのを区切りにして「結婚」には重みがあるような傾向がありますが、それは社会がそうさせている部分があると思います。30歳までに身を固めないと転職が難しいとか社会構造的な問題があるというのもあるかもしれませんが、何より気になったのは、同時通訳を介して海外のプレスやオーディエンスがいたわけですが、彼らの視点からは、この30歳前後の男女の模様やケジメとなる結婚というものが大きな意味をもつ日本の文化についてどう感じているのかというところです。私はド素人なのでどこかにあるのでしょうけれども、どのように表象するのかみてみたいと思います。

井山 彩子



Filmex2008レポーター自己紹介:加藤舞

昨年に引き続き、今年もレポーターを務めさせていただきます、加藤舞と申します。

現在は、Filmexのスポンサーでもある慶應義塾大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構でRA(リサーチ・アシスタント)をやっています。2005年に英国イースト・アングリア大学にて映画学修士号を取得。また、日本映画紹介サイト『HOGA CENTRAL』にスタッフライターとして記事を寄稿させていただいたりもしています。

今年のFilmexでは、去年より多くの日本映画を見ることを目標としています。やはり、Filmexには日本はもとより、海外からのお客様も多くおられますから、自分もこの場に参加できますことを大変光栄に思います。また、お忙しい中、今回特別レポーターを引き受けてくださった井山さんにも心より感謝です。彼女の隠された(?)多彩な才能がここで発揮されることを、本当に嬉しく思います。どうか、今年もFilmex特別レポートをどうかご期待下さいませ。

加藤 舞

Filmex2008レポーター自己紹介:井山彩子 

はじめまして、井山彩子と申します。

現在サラリーウーマン(ただ会社員といいたくないだけ・・笑)でありますが、どこか批判的、また横目でみるような感じで単館映画や社会を表象したドキュメンタリーなどを見るのが好きなので、今回新しい映画を見られるということで、このような機会を、友人である加藤さんからいただきまして深謝!している次第でございます。

また、私は趣味でBGMのような作曲をするので、いつかどんな小さな自主映画でも音楽を担当したいと思っているくらい音には非常に敏感です。そのような視点も交えてお伝えできたらと思っています。といっても普段はお勤めのため見たいものが見られない~という悲しいところがありますが。。。素人的にどこまでお伝えできるか不安ではありますがおつきあいいただきたいと思います。

井山 彩子

2008年Tokyo FILMex開幕

今年も早いもので、間もなく11月が終わろうとしています。そうです! 東京フィルメックスのシーズンがやってきました!

今年も昨年に引き続き、映画フリークの記者2名を配置して、会期中、公開される話題作についての情報をお送りしますので、ご期待下さい。

2007/12/13

東京フィルメックス事務局より「満員御礼」

こちらページで取り上げていただいた事業の主催の事務局の”しげゾー”と申します。

第8回東京フィルメックスが閉幕して早や3週間。映画祭が終わって私たちの活動がどうなっているかと申しますと、報告書まとめやら、露出記事のクリッピングの準備、精算、ご協力いただいた方々への御礼のご挨拶に忙しく動いております。

また、有り難いことにどこかの媒体で掲載された開催レポートのパブリシティを目にした方々からも、イベントや上映作品についてお問い合わせにも対応しているのが終了後の日常です。

このブログを含め、最近では感想や批評をブログに書き込んでくださる方も多く、その反響はますます増える傾向です。ブログの影響の大きさは、なんといってもやはり信頼する書き手、あるいは趣味や志向を共有する誰々さんが薦めているからといった共感の度合いが、マス・メディアを経由で得る情報よりも高まり次のアクションの動機につながるのかなと実感しています。

その意味では、アート鑑賞にとどまらず、次は発信元にまでなるブロガー、書き手の方々の関与はます一方ですし、何かさらなる局面を迎えるのか楽しみです。

運営に携わった皆さん、ライターの皆さん、お疲れさまでした。

読者の皆さん、来年の第9回東京フィルメックス(11/22〜/30)でお待ちしております。
どうぞご期待ください。

2007/12/02

『13歳、スア』: YELLOW defeats RED / Reality beats Fantasy

フィルメックスが閉幕して、もうすぐ一週間が経とうとしていますが、どうしてもレビューを書きたい作品があるのでアップします。それは『13歳、スア』という韓国の作品。

スアは多感な13歳の少女。父親を2年前に亡くし、母親は食堂を切り盛り。母親には恋人がいるのですが、スアはそれが気に入りません。実はスア、自分の母親は、韓国の人気歌手ユン・ソリョンだと信じ込んでいます。本当の母親に壁を作り、現実から目を背けるスア。それに気づかず、娘とすれ違っていく母親。スアが本当の母親と信じるユン・ソリョンに会うためにソウルへと家出したことをきっかけに、母娘の関係に転機が訪れます。

この映画は、きっと誰もが経験することのある反抗期の真っ只中で、もがき苦しむ少女を描いています。上映後の監督のQ&Aのなかで、「不思議な作品だった」という感想が客席から出ましたが、私にとっては、何だか懐かしいような、こっぱずかしいような感覚にとらわれた作品でした。ここで私が注目したいのが、この作品における「赤」「黄」の使い方です。簡単に言うと、「赤」はスアの幻想や現実逃避の世界を表す色で、「黄」は現実の世界を現す色です。以下にその例を挙げてみましょう。


「赤」:
手品師に貰ったバラ、生徒会長と一緒に塗った口紅とマニキュア、
ユン・ソリョンの衣装、スアの幻想で出てくるユン・ソリョンのステージ、
ソウルに向かうときに着ているスアの服

「黄」:
スアの布団、母親のバスの食堂、
バスの食堂の開店パーティーで母親が着ているカーディガン、
夢のなかで父親に決別をするスアが乗っているバス


「赤」の項目で挙げたものは、見た目こそ刺激的ではあるものの、非常に脆いものばかり。例えば、バラは枯れて、ごみと一緒に捨てられます。マニキュアも、数日後にはボロボロにはげている。そして、ソウルでユン・ソリョンの車を追いかけるスアの服は、雨でびしょ濡れに。一方、「黄」は見た目こそ弱い色ではあるものの、「赤」にはない安定性、そして「赤」には負けない強さを持っています。

ここで、もう一つこの2色について議論するならば、「母親」というテーマを忘れてはいけません。上記の項目を見れば一目瞭然ですが、スアの心のなかには2人の母親がいました。一人は「赤の母親」のユン・ソリョンで、もう一人が「黄の母親」である本当の母。面白いのは、本当の母親がバラを捨てたり、生徒会長の友達を牽制する発言をしたりと、「赤」の世界を作品の始めから否定し、壊していることです。最後に、ソウルで赤い服を着たスアのほっぺたを思いっきり引っぱたくのもそうですね。そして、目が覚めたスアが見つけた答え。それは、父親の日記に書かれていた母親の存在が、人気歌手のユン・ソリョンのことではなく、歌が上手で「ユン・ソリョン」というあだ名がついていた本当の母親のことだったという事実です。つまり、人気歌手は「赤のユン・ソリョン」であり、本当の母親は「黄のユン・ソリョン」だったわけです。

この作品の最後のシーンに、朝焼けのなかで、黄色のバス屋台を磨いている母親を、遠くから見つめるスアの姿があります。彼女はもう、黄色の現実から、目を背けることを止めたんですね。だって、黄色の世界に自分の居場所があることを知ることができたのですから。何とも心温まる一作でした。
加藤 舞

2007/11/27

『ジェリーフィッシュ』: Walk or Wander?? Swim or Float??

遅ればせながら、『ジェリーフィッシュ』のレビューを書かせていただきます。

この映画が映し出すもの。それは、人間の意志や運命を翻弄しながら全てを飲み込んでいく大海のような世の中、そしてその中をまるでタイトルの『ジェリーフィッシュ』=クラゲのように、流され漂いながら日々を生きる人間たち。

映画には多くのクラゲが出てきます。結婚式場で働く主人公のバティアもその一人。彼女は恋愛関係も上手くいかず、仕事にもやりがいを見出せない若い女性です。彼女の部屋の天井から水漏れしているのが、非常に象徴的。つまり、彼女の居場所が徐々に海と化してしまっていること、そして彼女がその海のなかをフワフワと漂うしかない存在であることを物語っています。そして登場するのは海辺で出会った迷子の女の子。女の子は腰に浮き輪を巻きつけ、喉が渇くと、まるで水がないと生きていけない水中動物、つまりクラゲのように天上から滴る水を飲みます。そして後のシーンでは、その水漏れがより激しくなり、バティアも天上から滴る水をゴクゴクと。更には、部屋中が水浸しになり、言葉通り海になってしまいます。彼女が車に轢かれるとき、真っ白なドレスを着ているのがとても印象的ですね。ホテルで自殺を図った女性の詩のなかに「スリップとドレスを着たクラゲ」というような一文がありますが、まさにこのときのバティアは、「白いワンピースを着たクラゲ」というわけです。

同じように、もう一人の主人公である新妻のケレンは最初、真っ白な、フワリとしたウェディングドレスを身に纏って登場します。その姿、まさにクラゲ。トイレに閉じ込められ、ドレスを脱いで脱出しようとするも、怪我をしてしまう。クラゲの傘も触手も失くしてしまっては、浮かぶことさえできなくなってしまいます。バティアの前に現れた女の子が、腰に巻きつけた浮き輪を脱がそうとすると、「ギャー!!」といって抵抗するのは、それを取り上げられると、浮いていられなくなってしまうからです。浮いていられなくなったクラゲは、浜辺に犬のフンと一緒に打ち上げられるだけですから。

この映画には、この世の中の海と、そこにいきる人間のクラゲが、非常に象徴的に描かれているシーンが幾つかあります。私がそのなかでも一番センスを感じるのが、バティアの働く結婚式場でのシーンです。白いドレスを誇らしげに身に纏ったクラゲ。ウェディングケーキも、浮き輪の女の子のシルエットにそっくりのクラゲ。新婚夫婦は、あの式場で、人生の新たな一歩を本当に歩き出せているのでしょうか?それとも、結婚式というイベント特有の雰囲気の海の中で、そして婚姻という社会的価値観の波に、ただ流され、漂っているだけなのでしょうか。

ただ、この映画が最後に語っていることは、人間がいかに無力であるかというような悲観的な見方では決してありません。エンディングで映し出されるのは、カメラマンの友人と浜辺を踏みしめながら歩くバティア。そして、旦那と同じ場所、時間、経験を穏やかに共有するケレン。老女マイカに買ってもらった船の模型を抱きしめ、フィリピンの家族のもとへ帰るハウスメイドのジョイ。彼女たちは、その瞬間を、ただ流され漂っているのではなく、自分の意志で泳ぎ、人間として歩いています。

ただ一つ、私が見落としてしまったのが「船」という視点でした。私たちクラゲと、世の中という海のなかで、「船」が一体どのような意味を持っているのか…。それを確かめる為に、そして再びあの映像美のなかへ迷い込む為に、何度でもこの映画を見てみたい。そんな気持ちにさせてくれる作品でした。
加藤 舞

「ティタシュという名の河」の音

ティタシュ河の雄大な流れと過酷な自然環境に寄り添いながら、貧困がもたらす人間の不条理を描いた叙事詩的大作、ですね。

あらすじ。結婚の話から始まります。キシェルという勇猛な男は、自分が結婚するのはバションティだと思っていたが、父親の言いつけにより他の村の女と結婚することに。花嫁(名前を思い出せない)を自分の村に連れて帰る途中、ティタシュ河で盗賊に花嫁を盗られてしまう。キシェルは狂ってしまい、花嫁は知らない村に流れ着く。花嫁は夫の顔も名前も、どこの村に行くことになっていたのかもわからない。流れ着いた村で身を寄せつつ、キシェルとの子ども・オノントを産む。10年後、オノントを連れ、偶然キシェルの村に移住することになる。村ではバションティの家に住むことになるが、そこには気の狂ったキシェルがいた。次第に花嫁はキシェルに惹かれるようになり、キシェルと花嫁は結ばれるかと思いきや、河辺で村人に殴られてしまう。死の直前、キシェルは花嫁を「妻よ」と言い残し死んでしまい、花嫁も息絶える。

みなし子となったオノントは、バションティによって育てられるが、バションティの両親によるオノントに対する冷たい仕打ちが、次第にバションティにオノントを拒絶する心が生まれる。ある時、オノントのことで母親とケンカになり、母親を殴ったことがきっかけでオノントを追い出してしまう。オノントを失った悲しみから、優しさまで失ってしまったバションティは次第に暴力的になっていく。バションティに言い寄ってきた他の村の商人を羽交い締めにした事件をきっかけとして、その仕返しに家を燃やされ、村の土地を没収されてしまう。バションティは飢えの中、干上がったティタシュ河で死んでしまう。

この作品、前回見た『非機械的』と同じように、音が効果的に使われています。ゴトク監督作品の特徴と言えるかもしれません。

例えば、新婚初夜の場面。式が終わり、部屋の中で離れて向き合うキシェルと花嫁。お互いなかなか近づかない。ついにキシェルが花嫁に近寄りベットに押し倒す。この場面では、花嫁の呼吸音が効果的に使われている。キシェルが徐々に女に近づいて行くにしたがって花嫁の呼吸が激しくなり、押し倒された時にはまるで全力疾走した後のような息づかいになる。他の音はなく、ただ花嫁の呼吸音の増幅だけでその緊張感が構成されている。押し倒された後は場面が転換するのだが、その後何が行われたのかを妄想的に膨らませるには充分な効果をもたらしている。

また、バションティが、オノントに出ていけと言う場面。この時、バションティは鬼のような形相で追い出すのだが、ここでは村の女が洗濯した服を洗濯板に叩きつける音が使われている。これも、バションティの、夫を失い、再婚もできず、子どももいないことからくるオノントに対する善の感情と、なぜ自分とは関係のないオノントのために苦労しなければならないのかという悪の感情を劇的に対比させるために象徴的に使われている。

さらに最後のシーンで、オションティが河辺で高い音が出る笛を吹きながら草むらを走り回る、いなくなったオノントの幻を見る。この時の音も、互いにふりかかった、避けることのできない悲劇を、笛の高い音でもって表されている。

貧困が人間の心までもすさませてしまう不条理と、子どもが母親を欲する愛と養母による養子への屈折した感情を、美しい映像と効果的な音でもって表現されていると思います。傑作です。(オオヤギ)

2007/11/25

『食べよ、これは我が体なり』: トレイラーに見る白と黒

一昨日、ミケランジュ・ケイ監督のハイチ映画、『食べよ、これは我が体なり』を見てきました。ここではあえて、そのトレイラー(予告編)に注目です。とにかく、一度ご覧ください。


これら予告編に出てくる映像は、映画から一部のシーンを丸々切り取ってきたものです。何ともシュールレアリスティックな映像…と思いませんか?この予告編から読み取れるもの、それを「白」と「黒」という色の観点で整理してみましょう。

まず、一つ目は食卓上のケーキが子供たちに食い荒らされていくシーン。

→「黒」に食べられていく「白」
 「黒」にバラバラにされる「白」
 「黒」にもてあそばれる「白」

そして次のシーンは、大きなミルクの撹拌器のなかへ次々に飛び込む子供たち。

→「白」に飛び込む「黒」
 「白」に飲み込まれる「黒」
 「黒」と混じり合うことのない「白」
 「黒」に汚されることのない「白」

そして映画ではこの後、このミルクを黒人の給仕が哺乳瓶に詰め、主である白人の老婆に与えると、彼女はゴクゴクとそのミルクを飲み干していきます。もう一度言いましょう、何ともシュールレアリスティックな映像…。

私はこの映画のなかで必死に「白」と「黒」が混ざり合った「グレー」・「灰色」を探しました。でも、少なくとも私には見つけられませんでした。「グレー」と「灰色」、あったのでしょうか?それとも…?
加藤 舞

2007/11/24

『サントゥール奏者』:子どもから大人へ、おもちゃから仕事道具へ

これまた非常に遅ればせながら『サントゥール奏者』のレビューを書かせていただきます。この映画、サントゥール奏者であるアリの成長を描く物語なのですが、ストーリーの組み立て方が非常に古典主義的だったのが印象的でした。イラン映画初心者の私は「イラン人の映画監督でも、こういう映画の作り方をするものなんだなぁ」なんて漠然と思ってみたのですが、メールジュイ監督が米国に留学されて、UCLAで映画を学ばれたとのプロフィールを読み、なるほど、と。イラン社会の背景を古典主義で描く、非常に興味深い組み合わせの映画です。

この映画で私が注目したいのは、主人公アリと楽器のサントゥーリとの関係。この関係の変化を細かく描き出すことによって、主人公のアリの成長がはっきりと輪郭づけられていきます。

最初、アリにとってサントゥールは彼の人生そのもの、そして彼の人格を形成しているものでもありました。のちにアリ自身が語っていることですが、家族との確執のなかで、かれはサントゥーリという「おもちゃ」を見つけ、そこに心地よい居場所を見出し、サントゥーリ演奏に没頭していくわけです。いわば、アリは子どものまま、家族やイラン社会という現実と向き合うことを拒否したまま、体だけ大人になってしまったといえるでしょう。

妻との別れやドラッグ中毒で徐々に自己が破壊されていくなか、演奏中に喧嘩に巻き込まれ、サントゥーリが壊され、踏みつけられるシーンは非常に暗示的です。壊され、踏みつけられているのは主人公アリ自身なのですから。サントゥーリを失ったアリは、自分自身を見失い、ドラッグに溺れていくわけですが、このときの彼はいわばおもちゃを取り上げられた迷子なのです。

しかし、彼にはサントゥールを持ち得ない、一人の人間をしてのアリを救おうとしてくれる元妻のハニエ、そして家族がいました。サントゥールを盾に現実をひたすら拒んでいたアリは、更正施設でようやく現実と、そして自分自身と向き合わなければいけない状況に置かれ、サントゥールという逃げ場無しで、アイデンティティを再構築していきます。物語の最後に再びサントゥールを手にしたとき、彼にとってそれはもうおもちゃではありません。彼は、現実から目を反らして自分を守るためにではなく、自立した一人の大人として、誰かを救うツールとしてのサントゥールを弾くようになります。それはまるで、サントゥールに支配された人生からの解放を暗示しているようでした。

アリの妻ハニエが音楽に一番大事なものは「心」と発言している部分があります(確か…)。映画ではアリの演奏シーンが幾度となく登場しますが、なぜでしょう、私は映画のラストで流れる、大人のアリが演奏するサントゥーリだけに何か特別な魅力を感じました。それは、あの演奏が「心」で奏でられた「音楽」だったからかもしれません。そういった意味で、主人公アリを演じるバハラム・ラダンの演技も素晴らしい一作でした。
加藤 舞

『脳に烙印を!』: Who’s peeping??


遅ればせながら、『脳に烙印を!』のレビューを書かせていただきます。この映画、ガイという青年が、母親に郷里の島に戻ってくるように言われ、そのなかで自分の少年時代の奇奇怪怪な、残酷な記憶が次々と蘇っていくという物語です。ちなみに彼の母親は島にそびえ立つ灯台が大好き。いつも望遠鏡でガイとその姉、ほかの孤児たちを監視していました。島に戻ったガイは、朽ち果てた灯台を白いペンキで何度も塗り直しながら、当時の記憶が溢れ出していくのを抑えることができません。

映画を見ていて気になったのは、ところどころに使われている、望遠鏡で何かをのぞいているような、もしくはサーチライトで何かを照らし出しているような、そんな構図の画。予告でも出てくるので、ちょっとご覧ください。



一見、ガイの母親が灯台から望遠鏡を使って夫と子供たちを監視している状態を表すショットなのかと思いきや、実は灯台自体や、望遠鏡を覗きこんでいるガイの母親の姿までもが、このショットで撮られていたりするんですね。これはどういうことなのか…と。つまり、誰が島の住民にサーチライトを当て、覗き見ているのか、という疑問が最後まで頭のなかを支配した作品でした。

So, who’s peeping!?
加藤 舞

2007/11/22

映画館での出来事:「それぞれのシネマ」から

「それぞれのシネマ」のひとつのタイプに、映画館で映画を見ている最中にキスをし出す、抱き合う、挙句の果てにことに及ぶ。そんなシーンがけっこうたくさん出てきました。特にヨーロッパの監督の作品に多かったような気がしますが、日本でそんな風景にお目にかかったことありませんし、映画館でそんな雰囲気になるということがあまり考えられない。せいぜいデートで手を握るくらいでしょう。映画館というのも、地域によっていろいろな状況を作り出すものなんだなと思いました。

そういえば、私のいる施設でメロドラマ特集を上映したとき、上映後、もう70近いご夫婦でしょうか、ものかげで静かに接吻をしていました。この時ほど、上映してよかったなあと思ったことはありませんでしたね。まったくもってうらやましい限りです。(オオヤギ)

「最後の木こりたち」会場編

これもシネカノン有楽町1丁目での上映。しかも915分。で、ドキュメンタリー。ほぼ満席。正直びっくりしました。ドキュメンタリーですよ。しかも915分スタートですよ。新人監督の作品ですよ。しかもアジアの。いくら場所がシネカノンで、めちゃくちゃ便利だとはいえ、どうしちゃったの、みなさん、と正直思ってしまいました。

私なんかは映画を上映する側にいるので、他人様のことでもこんな場面に出くわすととてもうれしくなってしまうのですが、やはりちょっと異常じゃないかなと。いい意味でですよ。この異常さが、映画祭というものが持つ独特の力なんでしょうね。みんな映画祭を楽しんでいるんだな、と思った上映でもありました。もちろんその中に私もいるのですが。(オオヤギ)

「最後の木こりたち」作品編

中国・黒龍江省の林業季節労働者たちのひと冬を追ったドキュメンタリー。日本の飯場と同様、冬、集団で木材伐採をするのですが、伐採による資源枯渇で2005年に廃止となってしまった。

んー、いまいち迫ってくるものがなかったです。久々に見ているのが苦痛に感じられたドキュメンタリーでした。もちろん、映像の切り口はとてもすばらしいし、一人一人のキャラクターの捉え方もなかなかおもしろかったのですが。

何がつまらなかったか。この作品、ナレーションや音楽を一切使っていない。監督の考え方なのでそれはそれでいいと思うのですが、はたしてこの作品でその手法が適当だったのか。というよりも、中国人以外の人が見た時に成立する手法なのか。話している本人には字幕がつきますが、その周りでザワザワ言っている人たちはいったい何を話しているのかわからない。雰囲気すら伝わってこない。画面にも映らないですし。そしていきなり、話している本人(字幕が付いている)が周りの人に何かをアピールしだす。それには字幕がつかないので、なぜそうなったのかよくわからない。

ドキュメンタリーは特にそうだと思うのですが、背後から聞こえてくる何気ない話もとても大切な要素だと思うんです。そのザワザワ感があるからこそ、その場面の雰囲気が醸成され、次のシーンにつながっていくのではないでしょうか。たとえば、「それぞれのシネマ」でアフリカのとある国で映画を上映するシーンが出てきました。ある人がカメラに向かって話している背後で、人が集まってなにやら話をしているのですが、背後で話している声と、字幕が付く、話している本人とは音に差があり、さらにちゃんと背後の人もフレームにおさまっているから、言葉がわからなくてもその場の雰囲気が伝わってくるんです。

また、音はおそらくハンディカメラに付いているマイクを使っているのでしょう。音の遠近感がまるでめちゃくちゃで、カメラが捉えている中心人物の話よりも、よりカメラに近い音が大きく入っていたのは残念でした。しかもノイズもかなりひどく、音声もブツブツと切れてしまっていたし。見ていてとてもきつかったです。

これはドキュメンタリーだから、という言い方もできるのかもしれませんが、やはり人に見せるということを前提にする以上、必要最低限の演出と効果は必要だと認識した作品でした。これらはあくまで手法の問題なので、そのあたりをきちんと修正すればもっと見やすい作品になったと思います。題材としてとてもおもしろかっただけに、ちょっと残念でした。(オオヤギ)