They are all in the BLUEs of “Passion”
11月23日に上映された『Passion』、見てまいりました。舞台あいさつで濱口竜介監督より「役者を見てもらう映画だと思っている」との発言がありましたが、『バッシング』で注目を浴びる占部房子さん、また私にとっては『ケイゾク』での演技が印象深い渋井清彦さんなどと、出演者も新進気鋭の方ばかり。東京藝術大学大学院修了作品ということで、海外からも注目される要素を強く兼ね備えた作品です。
さて、内容ですが、結婚、妊娠、仕事などについて悩み、もがきながらも生活を送る30歳前後の男女のお話です。詳細はこちら。
30歳前後ということで、私はまさにストーリーのど真ん中の世代なのですが、登場人物は学校教師、非常勤講師、大学院生、サラリーマン、作家、主婦であり、また誰かの夫であり、妻であり、恋人であり、独身であり、人の親となる身でもあり…。たとえ観客が30歳前後の方ではなくても、登場人物に感情移入しやすく、楽しめる作品だと思います。
この作品を見てまず感じたのは、男3人が夜道でじゃれ合い、また本気で喧嘩する姿に象徴されるような、登場人物の「子供っぽい」姿でした。
結婚や妊娠という人生を左右する大きな節目を前に、彼らはただ黙ってそれを受け止めることができない。社会的に喜ばれるべきことを、素直に喜べず、「悪くない」と言うことしか出来ない。彼らはまるで、現実を目の前に、ところどころで挿入される大都会の俯瞰図のなかで迷子になりながら走り続けるコドモのようでした。正確に言えば、「コドモ」ではありません、「オトナ」です。ただ、彼らは社会的には「成人」であっても、精神的には「大人」になりきれない存在なのです。そういう意味では、この映画は大人に成りきれないオトナの思春期やモラトリアムを描き出した作品といえるでしょう。
途中、学校教師役の果歩が「大人」として、クラスの子どもたちのいじめ問題について向き合う場面が出てきます。学生たちは思春期のまっ只中にいる存在であり、クラスで起こった自殺やいじめ問題について、生徒に必死に訴えかけようとする果歩に対して、挑戦的な態度を示します。この場面で、果歩は結局彼らを説得することができず、教室から逃げ出すように去ることしかできません。つまり、「大人」としての彼女は、「コドモ」の論理に勝つことはできなかった。実は、彼女もまた「大人」になりきれない存在であった、ということです。その夜、自らを「大人」だと証明でもしたいかのように智也を求める姿は、その象徴ともいえるでしょう。
印象としては、私自らが同じような年代だからということもありますが、非常にリアルな、いい意味での生臭さが漂う作品でした。上映後の質疑応答にもありましたが、この作品には「台詞が多い」という特徴があります。登場人物の心情や状況をあえて言葉にせずに、演出で代弁させるという技法が映画ではよく使われますが、濱口監督はあえて台詞を多くし、また今後も台詞の多い作品を作り続けていくだろう、と答えていました。この特徴が、リアリズムの生臭さを拒絶あるいはうまく中和し、この作品を「映画」たらしめているのかもしれません。
さて、内容ですが、結婚、妊娠、仕事などについて悩み、もがきながらも生活を送る30歳前後の男女のお話です。詳細はこちら。
30歳前後ということで、私はまさにストーリーのど真ん中の世代なのですが、登場人物は学校教師、非常勤講師、大学院生、サラリーマン、作家、主婦であり、また誰かの夫であり、妻であり、恋人であり、独身であり、人の親となる身でもあり…。たとえ観客が30歳前後の方ではなくても、登場人物に感情移入しやすく、楽しめる作品だと思います。
この作品を見てまず感じたのは、男3人が夜道でじゃれ合い、また本気で喧嘩する姿に象徴されるような、登場人物の「子供っぽい」姿でした。
結婚や妊娠という人生を左右する大きな節目を前に、彼らはただ黙ってそれを受け止めることができない。社会的に喜ばれるべきことを、素直に喜べず、「悪くない」と言うことしか出来ない。彼らはまるで、現実を目の前に、ところどころで挿入される大都会の俯瞰図のなかで迷子になりながら走り続けるコドモのようでした。正確に言えば、「コドモ」ではありません、「オトナ」です。ただ、彼らは社会的には「成人」であっても、精神的には「大人」になりきれない存在なのです。そういう意味では、この映画は大人に成りきれないオトナの思春期やモラトリアムを描き出した作品といえるでしょう。
途中、学校教師役の果歩が「大人」として、クラスの子どもたちのいじめ問題について向き合う場面が出てきます。学生たちは思春期のまっ只中にいる存在であり、クラスで起こった自殺やいじめ問題について、生徒に必死に訴えかけようとする果歩に対して、挑戦的な態度を示します。この場面で、果歩は結局彼らを説得することができず、教室から逃げ出すように去ることしかできません。つまり、「大人」としての彼女は、「コドモ」の論理に勝つことはできなかった。実は、彼女もまた「大人」になりきれない存在であった、ということです。その夜、自らを「大人」だと証明でもしたいかのように智也を求める姿は、その象徴ともいえるでしょう。
印象としては、私自らが同じような年代だからということもありますが、非常にリアルな、いい意味での生臭さが漂う作品でした。上映後の質疑応答にもありましたが、この作品には「台詞が多い」という特徴があります。登場人物の心情や状況をあえて言葉にせずに、演出で代弁させるという技法が映画ではよく使われますが、濱口監督はあえて台詞を多くし、また今後も台詞の多い作品を作り続けていくだろう、と答えていました。この特徴が、リアリズムの生臭さを拒絶あるいはうまく中和し、この作品を「映画」たらしめているのかもしれません。
加藤 舞



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