Welcome to the chaos of “Delta”
クロージング作品として上映された『デルタ』。2005年にカンヌ映画祭「ある視点」に選ばれた『Johanna』のムンドゥルツォ・コルネール監督による長編第3作です。
ハンガリーのデルタ地帯の村を舞台に、故郷へ戻ってきた若い男性を取り巻く妹との関係、母と義父との確執などを描いた作品。詳しくはこちらをどうぞ。
まず、この作品を見て思ったのは、コンペ作品の日本映画『passion』の対曲線上にある映画だということです。どちらが良い悪いということではなく、濱口監督が台詞の多い映画作りをあえて行っているのとは逆に、この映画はあえて「言葉はいらない」と言わんばかりに台詞を最小限に押さえています。このような対照的な作品がプログラミングされていることに、東京フィルメックスという映画祭の存在価値を感じずにはいられません。
実は、台詞だけではありません。この作品は、「クローズアップはいらない」と言わんばかりに隠します。それはまるで、人間の所業を大自然の中に包み隠すかのようでもあります。例えば父親が家を出る義娘を引き止めるシーン。山々に囲まれ広々とした野原のロングショットに響き渡る義娘の悲鳴と父親の嗚咽。画面上では豆粒ほどでしかない小屋の前で、点のようでしかない2人に何が起こっているのか、観客は知りたくても見ることができません。最後のクライマックス場面でも同じです。闇で覆われた川と夜空のロングショットのなかに、線のように細くかかる橋の上を走る女性と、それを追いかける村の若い男性たち。遠くから聞こえるかすかな悲鳴。黒く静かな水面に立つ一点の小さなしぶき。
この2場面では、事前に巧みに張り巡らされた伏線によって、観客は一体何が起きているのかをある程度想像させられます。しかし、想像させられる場面は大抵、全うな人間であれば目を伏せたい、信じたくない場面です。聞かせず、見せないことで「そうあってほしくない」「きっとそうではない」という思いを観客に持たせつつ、次の場面ではまるでその儚い期待を裏切るように、絶望を突きつける。義娘の太ももを見たとき、主人公の水に溺れるざわめきが途切れたとき、私は「知らなければよかった」という後悔すら生まれました。皆さんはいかがですか? このような演出のなかで、デルタ地帯の大自然は、人を癒すような存在ではなく、むしろ脅かすような不気味な存在にすら見えてきます。
聞きたいことを聞かせない、見たいものを見せない。広い意味での商業映画は台詞やBGM、カメラの動きやショットの組み立てによって、わかりやすく演出されるものですが、この映画はまさにそのアンチテーゼと言える存在でしょう。ただ、これは場面で切り取る要素の選択の問題で、それがこの映画では独特だということですから、もしかしたら監督にとっては隠すとか、そういう意識ではないのかもしれません。どちらにせよ、観客は惑わされ、裏切られ、迷い込む。迷路を楽しむか苦しむかは皆さん次第といったところでしょう。
ハンガリーのデルタ地帯の村を舞台に、故郷へ戻ってきた若い男性を取り巻く妹との関係、母と義父との確執などを描いた作品。詳しくはこちらをどうぞ。
まず、この作品を見て思ったのは、コンペ作品の日本映画『passion』の対曲線上にある映画だということです。どちらが良い悪いということではなく、濱口監督が台詞の多い映画作りをあえて行っているのとは逆に、この映画はあえて「言葉はいらない」と言わんばかりに台詞を最小限に押さえています。このような対照的な作品がプログラミングされていることに、東京フィルメックスという映画祭の存在価値を感じずにはいられません。
実は、台詞だけではありません。この作品は、「クローズアップはいらない」と言わんばかりに隠します。それはまるで、人間の所業を大自然の中に包み隠すかのようでもあります。例えば父親が家を出る義娘を引き止めるシーン。山々に囲まれ広々とした野原のロングショットに響き渡る義娘の悲鳴と父親の嗚咽。画面上では豆粒ほどでしかない小屋の前で、点のようでしかない2人に何が起こっているのか、観客は知りたくても見ることができません。最後のクライマックス場面でも同じです。闇で覆われた川と夜空のロングショットのなかに、線のように細くかかる橋の上を走る女性と、それを追いかける村の若い男性たち。遠くから聞こえるかすかな悲鳴。黒く静かな水面に立つ一点の小さなしぶき。
この2場面では、事前に巧みに張り巡らされた伏線によって、観客は一体何が起きているのかをある程度想像させられます。しかし、想像させられる場面は大抵、全うな人間であれば目を伏せたい、信じたくない場面です。聞かせず、見せないことで「そうあってほしくない」「きっとそうではない」という思いを観客に持たせつつ、次の場面ではまるでその儚い期待を裏切るように、絶望を突きつける。義娘の太ももを見たとき、主人公の水に溺れるざわめきが途切れたとき、私は「知らなければよかった」という後悔すら生まれました。皆さんはいかがですか? このような演出のなかで、デルタ地帯の大自然は、人を癒すような存在ではなく、むしろ脅かすような不気味な存在にすら見えてきます。
聞きたいことを聞かせない、見たいものを見せない。広い意味での商業映画は台詞やBGM、カメラの動きやショットの組み立てによって、わかりやすく演出されるものですが、この映画はまさにそのアンチテーゼと言える存在でしょう。ただ、これは場面で切り取る要素の選択の問題で、それがこの映画では独特だということですから、もしかしたら監督にとっては隠すとか、そういう意識ではないのかもしれません。どちらにせよ、観客は惑わされ、裏切られ、迷い込む。迷路を楽しむか苦しむかは皆さん次第といったところでしょう。
加藤 舞



0 Comments:
Post a Comment
<< Home